「感謝を表す原始的な反応です。快感を与えるための。つまり、ふだんのわたしたちの宿主は、とても愚かなので、肉体的感覚でこちらの感謝を表すしかないのです」
「ありがとう。わたしを運ぶことにしてくれて、ほんとにありがとう」
『たったひとつの冴えたやりかた』より
(ジェイムズ・ティプトリー・ジュニア/浅倉久志訳)
十六歳の冬に、僕は実にいろんな人と出逢った。ボクサー、軍人、ヒモ、探偵、やくざ。彼らはみんな種類のちがうニートだった。ニートというのはニュースや新聞でたまに見かける言葉で、やる気のない無職の若者を指す言葉だと思っていたけれど、ニートにもそれぞれの顔がある。だれもが同じ理由で仕事をせず学校にも行っていないわけじゃなかった。
「ニートというのはね。なにかが『できない』人間や、なにかを『しようとしない』人間のことじゃないんだ」と、探偵は僕に教えてくれた。「ちがうのはただ、ルールなんだよ。みんなが双六をやってる盤の上に、ぼくらだけチェスの駒を並べてるようなものさ」
「よくわかんないけど。邪魔してる、ってこと?」と、僕はそのときは無邪気にも訊いてしまった。探偵は、さくらんぼみたいな唇をすぼめてしばらく考え、それからにっと笑った。
「先に進みたい人間にとっては邪魔だろうね。ひとまとめにしてラベルを貼って処理場に引っぱっていきたい気持ちはわかる。指さして嗤いたい気持ちもわかるよ。嗤えばいいんだ、どれだけ言葉を取り繕おうと、ぼくらが今までもこれからも社会経済にマイナスしかもたらしていないのは動かしようのない事実だから。でも」
探偵は広げた自分の両手を見つめ、また顔を上げた。今度は皮肉な苦笑ではなく、冬の晴れ間みたいにあたたかい笑い顔だった。
「ぼくらはぼくら自身を嗤わない。ミミズは暗闇を怖がったりしないし、ペンギンは空が飛べないのを恥じたりしないのと同じように。それが生きるってことだよ。ちがうかい?」
僕は答えられなかった。そんなこと、これまで考えたこともなかったから。だって、なんか小難しそうなこと言ってるけど要するに駄目人間だろ?
でも、その冬に僕ははじめて人が死ぬところを見て、はじめて人を殴った。生きることについて自分なりにほんの少しずつ考え始めることになった。生きることをやめちゃったやつとか、死ぬことをやめちゃったやつとかを見たら、たぶん、だれだってそうなる。
でも、それはずっと後の話だ。まずは、その冬に僕が出逢った人たちの中でただ一人の、ニートじゃない普通の女の子のことから話そうと思う。
●
彩夏とはじめて逢ったのは十一月の終わり頃だった。
僕はその火曜日の放課後、南校舎屋上の給水塔の上でぼうっと彼方の高層ビル群を眺めていた。いつもなら授業が終わってすぐにコンピュータ室に行って部員一名の部活動にいそしむんだけど、午後にIT選択授業がある日は、放課後も生徒が大勢居残って普段さわれないパソコンで遊んでる。そこにのこのこ入っていくのは気が引けるので、毎週火曜日と木曜日は屋上で時間を潰すことにしていた。北校舎の二階に見えるコンピュータ室に向かって、さっさと帰れよ電波を十分くらい送り込んでから、ため息をついて街をながめる。
僕の越してきたこの街は二色に色分けされている。病人の静脈みたいな細い川がその境目だ。こっち側には小さな工場の錆びた屋根、肩を寄せ合った安アパートの並び、それから高校。なぜか寺と墓地も多い。僕の家もこっち側。向こう岸には首都高速の高架、無数の路線を吞み込む巨大な駅、複雑に交差した坂道に沿って居並ぶビル、デパート、テレビ局。晴れていると彼方に都庁の影も見える。東京は不思議なところだ。日本中のどこにでもある退屈な住宅地と、ビルだらけの都会とが、平気な顔をして隣り合っている。
駅のあたりは、屋上から眺めていると、テレビCMの一コマみたいに現実感がなかった。たぶん、僕がそっちに寄りつかないせいだろう。学校の帰りに制服のままするっと遊びに行けるので、うちの高校は内外で人気が高いらしい。明るい色のセーラー服だと四割増しくらいでもてるんだそうだ。
その日は曇り空で、いつもはぎらぎら太陽を照り返すビルの表面をよく観察することができた。とはいってもまったく同じように区切られたガラスが並んでいるだけなんだけど、僕は頭の中でその区切りのあっちやこっちに色を塗りながらドット絵を描いていた。
そうやってひとりきりで時間を潰すのには慣れていた。父親の仕事の関係で、しじゅう転校していたからだと思う。十月のはじめにその高校に転入してきた僕は、活動している部員が他にいないからという理由だけでパソコン部に入って、だれにも気づかれずに学校生活を送っていた。高校なんて通う意味はないんじゃないかと思うこともよくあった。授業にも全然ついていけないし。
ビルを眺めていると突然、足下でがちゃりと音がしたので、僕は腰を浮かせた。給水塔は屋上から突き出た階段室の上に置かれている。階段を上ってきただれかがドアを開けた音だ。
「あれ、いないのかな」
女の子の声が聞こえた。僕がおそるおそる身を乗り出して真下をのぞいたとき、彼女が振り向き、目が合った。
ショートカットに、気の強そうな眉と、対照的に人懐っこそうな可愛い瞳が印象的な女の子だった。見憶えがあるような気がした。身を起こそうとすると、彼女がめちゃくちゃ驚いた顔で「わ」と叫んだ。僕は給水塔から転げ落ちた。
足から落っこちたのは幸運だったけど、手の甲をコンクリートの壁で盛大にすりむいたので、僕らが出逢って最初にしたことは、彼女が持ってきたじょうろの水で傷口を洗って手当てすることだった。
「なんでこんなとこに登ってるかな、危ないよ!」
擦り傷に絆創膏をべたべた貼りながら彼女は言う。なんでと訊かれても困る。
「……馬鹿となんとかは高いところが好きなんだよ」
「馬鹿の方を伏せ字にしないと意味ないよ、それ」
ものすごく冷静に突っ込まれてしまった。逃げ出したくなったけど、手首をつかまれているのでそうもいかない。
「はい、おしまい。もう登っちゃだめだよ?」絆創膏まみれになった僕の右手をぽんと軽く叩いて、彼女はまるで保母さんが幼稚園児を諭すみたいににこやかに言う。「とか言って、あたしも登ったことあるんだけどね。はしごがあると登りたくなるよねやっぱり」
というかこいつだれだ? 学校の人間は顔も名前も一人として憶えていなかったので、こんなになれなれしく話しかけてくる女の子にはまったく心当たりがなかった。
ふと、彼女の左腕に巻かれた黄色い腕章が目に留まる。古びて文字は変色していたけれど、かろうじて『園芸委員』と読めた。そこでようやく、フェンスの際に並んだたくさんの鉢植えに気づいた。園芸委員会なんてあったのか。
「あ、そうか、あの高さからじゃないとコンピュータルームがよく見えないのか。藤島くんて、あれなのかな、同じ部屋にだれかいると集中できないとか? 芸術家タイプ?」
フェンスに手をかけて向かい側の校舎に目をやりながら彼女が言った。僕はぎょっとする。
「──なんで知ってんの?」
自分でびっくりするくらい素っ頓狂な声が出た。彼女はきょとんとした顔を僕に向ける。
「だって、うちのクラスこっちの三階だから、コンピュータルーム見えるもん。藤島くんいつも窓際の席使ってるし」
見られてた。血の気が引くのがわかった。この女どこまで知ってる。ひょっとしてアレなCGを彩色してるとこまで。いやそれより。
「なんで、僕の名前」
今度は彼女が野球投手のワインドアップみたいなかっこうで驚く番だった。
「憶えてないの? 同じクラスなのにっ?」
「え」
僕はものすごく焦る。転校してきてから、ほとんどだれとも喋らないようにしてきたから、クラスメイトの名前なんて一人も思い出せないのだ。
「購買部の場所も教えてあげたのに。世界史の資料集もいっぺん貸してあげたのに。体育のときに着替えも手伝ってあげたのに!」
「ちょ、ちょっと待って」
「最後のは噓だけど」
この女……。
「ひょっとしたら、とは思ってたけど、ほんとに憶えてなかったんだね……」
泣きそうな目でそう言われると、なんだか申し訳なくなってくる。
「篠崎彩夏。藤島くんの二つ隣の席だよ? なんで憶えてないかな」
「ごめん……」
「だいたい藤島くんは一年四組だっていう自覚が足りないんだよ、文化祭もさぼるし」
いや、でも、転校してきて次の週に文化祭ですよ? 休むしかないだろ。
「クラス章もつけてないし。都立校でクラス章がある学校すごく珍しいんだよ? つけなきゃ損だよ」
なにがどう損なのかよくわからなかったので、「あれ失くしちゃった」と僕は噓をついた。
「じゃ、あたしの貸してあげる。うちにスペアあるから」と、彩夏は自分のセーラーの襟からバッヂを外した。
「え、いや、要らないよ」
「いいから、こら、暴れるな」
逃げようとした僕は、彼女に後ろから捕まえられた。僕は思わず息を止めて固まってしまう。背中から彼女の両手が回されて、僕のブレザーの襟をまさぐっている。これは、客観的に見て、後ろから抱きつかれているように見えるんじゃないだろうか、いや、待て、落ち着け僕。
ものすごく長い体感時間の後で、彩夏の体温が僕の背中から離れる。
「うん。よしよし」
彼女は僕の正面に回ってくると、満足そうにうなずく。緑と青に塗られた襟章を、僕は複雑な気持ちで見下ろした。首輪でもつけられた気分だった。なんだってこいつは、こんなことまでしやがるんだろう。転校生にやたらと世話を焼きたがるやつはけっこう見たけど、ここまで気安いのははじめてだった。
「校則で決まってるんだから外しちゃだめだよ?」
「なんで東京の高校は変な校則がいっぱいあるのかな……」
東京は自由だと思ってた僕が悪いのだろうか。とくに迷惑なのが、最低一つは部活動を義務づけられていることだった。おかげでこんな目に遭っている。
「校則なかったら、藤島くん帰宅部だったんだ?」
なんだよ。悪いかよ。
「でもパソコン部、来年なくなっちゃうよ?」
「……え?」
「もうすぐ三年生卒業でしょ。四月に予算決めるときに、部員が最低二人いないと、廃部なんだって」
そんな重要事項、初耳ですが。僕はパソコン部顧問教師のうらなりナスビ面を思い出す。あの野郎、黙って潰す気だったな。せっかく居心地のいい部活だったのに。
「あのねっ」
いきなり彩夏が声を高くするので。僕はびっくりして半歩後ずさった。
「ものは相談なんだけどっ。藤島くんが交換条件を吞んでくれるなら」と彼女は、なんだか悲壮な覚悟を決めたみたいな顔つきで言った。「あたし、パソコン部に入ってもいいよ」
「……交換条件?」
「実は園芸部も、あたし一人しかいないのです」
なぜか自慢げに彩夏は、左腕の腕章を僕につきつけた。園芸部? 園芸委員じゃないのか?
「委員会はずっと昔になくなっちゃったの。これ、物置から見つけてきたやつ。かっこいいでしょ?」
「いや全然」
「どうしてそういうこと言うかな! とにかく」
彩夏は顔を真っ赤にしている。なんでこんなにハイテンションなのか、わからない。
「弱小部は助け合って生きていこうよ、ね?」
●
けっきょく彩夏の迫力に圧されて、僕は交換条件を吞むことになった。二人で入部届けを職員室に出して、それでおしまいのはずだった。屋上ではひとりになれないとわかったので、放課後の時間を潰す場所を別に探さなきゃいけなかった。図書室とか職員用トイレとかを検討しながら僕は家に帰った。
でも次の日の放課後、授業が終わるなり彩夏は僕の机までやってきて言った。
「あたし屋上の鍵借りてくるから、藤島くんは道具取ってきて。玄関の脇のロッカーわかるでしょ? 園芸委員って書いてあるやつ」
クラスメイトの視線が、鞄に教科書を詰め込んでいた僕と、彩夏との間を何度も行き来する。
「名前だけの部員じゃなかったの?」と僕は口を挟む。
「……名前だけだったの?」彩夏は振り向き、口をおさえて青ざめる。「そ……そうだよね、ごめんなさい。あ、あたし、嬉しくて、ちょっと舞い上がっちゃって、あの」
涙ぐむ彩夏。クラスメイトの視線が痛かった。まるで僕が泣かせてるみたいな、いや、その通りなんだけど、とにかくこれはまずい。
「えと、あの、ちょっと」
「藤島くんもパソコン部で忙しいもんね。ごめんね?」
「いや、べつに──」
「こないだパソコンで描いてた女の子の絵、もうすぐ完成だもんね。スカートは後から描くんでしょ?」
「わああ!」
僕は泡を食って彩夏の口をふさいだ。
「わかった、オーケー、手伝うから」
「……ほんとに?」彩夏の顔から一瞬で涙の気配が消し飛ぶ。「ありがと、藤島くん!」
いたずらっぽく舌をちらと出すのも見えた。くそ、この女。
「……あや、部員増えたんだ?」
そばにいた女子生徒が、複雑そうな表情でちらちら僕を見ながら言う。
「うん。戦力倍増。植物のことならなんでも言ってくれていいよ」
クラスメイトたちは顔を見合わせる。
「あ、じゃあ」男子の一人が手を挙げた。「トイレの洗面台のカビがすごいからなんとかしてくれ」
「カビは植物じゃないよ!」と彩夏。
「いや、植物だろ?」「植物と動物だけで分類するのはもう古いんだってさ」「トイレのあれは苔じゃね?」「地衣類だと植物じゃないんだよ」「生物部ちょっと黙ってろ」「どんどん広がってるよな」「人の顔に見える」「マジかよ」
次々と男子生徒が口を挟んできて論議が盛り上がる。なんなんだこのクラスは。二十分くらい侃々諤々したあげく、彩夏が保健室からほんとにカビキラーを借りてきた。当たり前のような顔をして男子トイレに入ろうとする彼女を、僕はあわてて止める。
「……僕がやるから」
トイレの壁一面に広がったカビを前に途方に暮れる僕を哀れに思ったのか、同級生が何人か手伝ってくれた。塩素の刺激臭がトイレ中に充満する。
「藤島も大変だよな……」
めちゃくちゃ同情されてしまった。
「まあ、篠崎も悪いやつじゃないから」「悪いやつじゃないな」「うん」
壁をスポンジでこすりながら、僕も力なくうなずき返す。
そこでふと気づいた。クラスメイトから名前で呼ばれるのは、それがはじめてだった。しどろもどろになった僕は、ろくな言葉も返せなかった。
●
「新入部員歓迎会しようよ、おごるから」
その日の夕方、作業を終えて蘭の鉢植えを残らず玄関口の内側に運び込むと、彩夏が言った。
「ラーメン屋さんでバイトしてるの。店員だから安くしてくれるよ」
女子高生がラーメン屋でバイトってのも珍しいな、と思う。
「ちょくちょく行ってるうちに働くようになったの、面白い常連さんがいっぱいいるし。一緒に行こ?」
「なんで──」
断ろうとしたらまた泣く構えを見せたので、僕はしかたなくうなずく。道具をロッカーにしまって鍵を職員室に返すと、彩夏と一緒に校門を出た。
首都高より向こう側には行ったことがないと言ったら彼女はめちゃくちゃ驚いた。
「だって住んでるのもこの近くなんでしょ?」
「引っ越してきたばっかりだし、駅前は人多いからあんま行きたくない。行く用事もないし」
「ブックファーストとかHMVとかも行かないの?」
僕はうなずく。本もCDもたいがい通販で買うことにしていた。店がでかいからって欲しい物が置いてあるわけじゃないし。
「そっか。でも、うちの店はけっこう駅から離れてるよ。ラーメンはそんなに美味しくないけどアイスクリームがすっごい美味しいので有名」
「アイス屋やれよ……」
「それミンさんに絶対言っちゃだめだよ。ラーメンの上にアイス載せて出してくるよ」
ミンさんというのはそのラーメン屋のマスターだという。中国人だろうか。
二歩前をスキップ気味の足取りで楽しげに歩く彼女を見ながら、不思議な気持ちになる。なにがどう間違ってこんなことになってるんだろう。なんで僕みたいなやつにいちいちかまうんだろう?
運送トラックの舞い上げる砂埃を浴びながら橋を渡り、街に入る。首都高の高架をくぐって駅前へ。人の海の中をもまれながら流されるように南口に入り、地下街を通って東口に抜ける。
地上に出て線路沿いに進んだ先、ホームレスのテント小屋が立ち並ぶ公園を抜け、街の灯が届かなくなったあたりで右手に入る。ラーメン屋は、薄暗い袋小路にあった。その雑居ビルの一階、『ラーメンはなまる』と書かれたのれんのあたりだけが明るくて、誘蛾灯にまとわりつく虫みたいに客が集まっていた。
ひどく狭い店だった。床面積のほとんどは厨房が占めて、カウンター席が五つきり、あとの客は店の外にあるパイプ椅子で食べている。中にはひっくり返したビールケースに座って丼を抱えているサラリーマンもいる。
「どっかそのへん座ってて?」
彩夏はそう言って店の裏に回ってしまった。そのへんて言われても。椅子もビールケースも絶賛満席なんですけど。
彼女が入っていったビルとビルの間をのぞきこむと、厨房に続く入り口の脇に非常階段があって、そこに一人の男が座ってラーメンをすすっていた。階段の足下には、重ねた古タイヤと、背の低いドラム缶、しみだらけの段ボール箱。
男が顔を上げた。僕は思わず一歩後ずさった。男は二十歳前くらいで、肌が浅黒くて、もう十一月だってのにTシャツ一枚で、盛り上がった上腕二頭筋がむき出しで見えた。ぎょろりとした目でにらまれて、殺される、と一瞬だけ思った。
「おまえ、M高生か」
「いやちがいます、まだ中学生ですよ高校生に見えますか?」自分でも理由はわからないけどとっさに噓が出た。男は丼を置いて言う。
「そか。ところで数学の福本先生の髪はまだ無事?」
「いや、もう生え際が北極点をとっくに通過して……はっ」
寄ってきてデコピンされた。額に穴が開いたみたいに痛い。
「……ぅう……卑怯だ、卒業生なら最初からそう言えばいいのに」なにが卑怯なのか自分でもよくわからないが(というか制服見ればM高生なのはバレバレなのに気づかない僕の方がどうかしてたんだけど)、額を押さえてしゃがみ込み、うめく。と、背中から声がした。
「卒業生じゃないよ、そいつは中退。落ちこぼれだ。ほら、これ食え」
振り向くと、灰色のタンクトップを着た若い女の人が立っていた。後ろ髪は太いポニーテイル、大きく開いた胸元からは、巻き付けた白いさらしが見える。土木作業員みたいなかっこうだったけど、白抜きの文字で『はなまる』と書かれた黒い腰エプロンをつけていたので、店の人だとかろうじて気づいた。ひょっとしてこの人がミンさん? 女の人だったのか。
ミンさんが僕の手に押しつけたのは、紙カップに入ったアイスクリームだった。
「あのなマスター、何度も言ったけど自分からやめたんだ、落ちこぼれてねーぞ」
「ツケ払ってからでかい口きけ無職」
「赤ん坊は生まれたときみんな無職っていうだろ。そこから世間の汚い色に染まってくんだ」
それ無色ちがうから。でもミンさんは突っ込まずに厨房の白い湯気の中に戻っていった。僕はアイスのカップを手に、しばらく立ちすくむ。
「おい、おまえ」と、中退生の声。振り向いてとっさに額をかばう。
「なに警戒してんだよ。おまえ、一年だよな」と僕の襟のクラス章を見て彼は言う。「中間テストの赤点いくつあった?」
「な」
なんでそんなこと訊くですか?
「藤島くん、だめだよテツ先輩とあんまり喋っちゃ、ニートが感染るよ」
制服の上からそのまま黒いエプロンをした彩夏が、丼を満載したトレイを手に厨房から出てきて言った。色黒男──テツ先輩は歯をむいてデコピンの真似だけした。男女差別だ。彩夏は舌を出して、それから店の外の席に座っている客の方へ給仕に行ってしまう。
「いいから答えろ、おまえはいかにも一年生のうちからすぐ赤とりそうな顔してる」
でっかいお世話だったが事実その通りだったので、僕は「英語と日本史で追試だった」と小声で答えた。テツ先輩は満面の笑みを浮かべて僕の腕をつかみ、ものすごい力で引っぱりおろしてドラム缶の上に座らせた。
「この席はほんとはニート専用だけど、おまえは見込みがある。中退したら来い、俺らはおまえを歓迎する」
「いや、そんな見込み要らないです」俺らって、他にだれ?
「なんでだよ。台選びから教えてやるよ? 店員にも知り合いいるから設定6の情報とかすぐ入るし」
よく見るとテツ先輩はジーンズの背中にスロット情報誌を挟んでいた。うわあ。この人パチプロだ。正真正銘の駄目人間だ。僕はテツ先輩の方をなるべく見ないようにしながら木のスプーンでアイスを口に運ぶ。晩秋の夕空の下、ラーメンのスープの香りがする熱気を顔に浴びながら味わうアイスクリームは格別の美味しさだった。
テツ先輩の言う『俺ら』の二人目は、僕がチャーシューメンをすすってる最中に現れた。いきなり後頭部になにかごりっとした硬いものが押しつけられ、「動くな。武器を捨てて両手を挙げろ。氏名と所属部隊を言え」と声がする。僕はチャーシューとスープを噴き出しかけた。
「え、え、えと」両手を挙げたら丼落とすんですけど。
「遅かったじゃん少佐。アホやってないで座れよ」
テツ先輩はヴァニラアイスとコアントローソースをかき混ぜながらのんびり言う。
「ここは自分の席ですよ。だれですかこいつは」
「ナルミ。彩夏と同じ部活だって」
「後からヒロさんも来るって言ってたのに、どうするんですか座る場所」
「ヒロはナルミの膝の上でいいだろ」
「なるほど」
なるほど?
少佐と呼ばれた男はようやく僕の視界に入ってきた。濃緑と茶色の混じった迷彩色のトレーナー、硬そうな丸帽、ゴーグル型のサングラス。瘦せていて、肌は小学生みたいに綺麗なピンク色だった。僕と同い年くらいに見える。手にしていたモデルガン(だと思う、本物だったらどうしよう)をカーキ色のバックパックにしまいながら、僕を見て言う。
「でもこいつ、高校生じゃないですか。ニートの定義は」
「心配すんな。俺の後輩だし、あと二年もすれば立派なニートになる」
「なりませんよ!」と僕はあわてて抗議した。少佐はゴーグルの奥から僕をにらみ、段ボール箱の上に腰を下ろす。
「一億総ニートの時代には、このような量産型ニートも必要なのか。我が国の未来は暗い」
「……量産型?」
おそるおそる訊いてみると、少佐はびっと僕を指さしてまくしたて始めた。
「そもそも貴様はニートの定義を知ってるのか? 原義では十六歳から十八歳の非就学・非就職者を指していたのが、英国から日本に輸入されて十五歳から三十四歳までと爆発的に定義が拡大されたのだ。あまりにも多様化したために、能動型・受動型の二種、刹那型・挫折型・蟄居型・躊躇型の四種、あるいは三次元軸八象限で分類しようとの試みも見られるが自分に言わせればすべてナンセンス」
「向井さん、お待ちどおさま」
彩夏が少佐の分の塩ラーメンを持ってきた。向井さんというのが少佐の本名らしい。
「ごめんね藤島くん、もうちょっとしたらピーク過ぎるから」
僕は彩夏に全力で、この座から脱出したいからなにか口実を作ってくれと念を飛ばしたけど無視された。少佐はスープを一口すすってまた喋り出す。
「そもそもニートは文化依存症だ。我が国のような富強国でしか生まれ得ない。我々はもっとニートを誇るべきだ! ニートを育んだ国土を愛し、内外の敵から守るために立ち上がらなくては! 量産型ではなく精鋭のニートを募り切磋琢磨し、日本新党を結成し悪の枢軸に断固たる戦いを挑むのだ! 増えるぞニート! 燃え尽きるほどニート!」
「うるせー黙って食え!」
厨房からミンさんの怒鳴り声と一緒に小鍋が飛んできて少佐の頭に激突した。
三人目がやってきたのは、少佐が帽子をぬいで後頭部のこぶをさすっているときだった。
「あれ。どうしたのその子」
男の声がして、路地の入り口に背の高い影が差す。
明るい色のジャケットとチノパンツを少し崩した感じで着こなした青年が立っていた。どこの業界かわからないけど業界人のオーラが出ている。テツ先輩とは違う意味で気圧されてしまい、その人が寄ってきたのでドラム缶からずり落ちそうになった。
「彩夏の知り合い。ほら、M高の」とテツ先輩が言うと、「あー、あーあー」とその人は笑って、僕のブレザーの肩を叩いた。
「テツがこの制服着てた時代もあったんだよなあ」
その人は狭苦しい勝手口周辺を見回すと、テツ先輩の隣、階段に腰を下ろした。僕は内心、首を傾げる。この場所はニート専用とかどうとか言ってなかったっけ?
「はじめまして。おれ、こういうもんです」と、その人は胸ポケットから薄い名刺入れを取り出して一枚僕に差し出してきた。やっぱり、ちゃんと働いてる人なのだ。そう思って受け取った名刺を見たら、こんなことが書かれていた。
『ニート
桑原 宏明』
……はっ。一瞬、意識を失ってしまった。
自分の生きている世界を確かめるために、僕は深呼吸してあたりを見回した。テツ先輩はアイスに、少佐はのびかけた塩ラーメンにかかりきりだった。彩夏は厨房の湯煙の中で丼を洗うのに忙しく、ミンさんは中華鍋の炎と格闘中、見上げた晩秋の夜空はどこまでも高く、突っ込む人間は僕だけだった。
「え、と……お仕事がニートなんですか?」
こわごわ訊ねると、ヒロさんは歯磨き粉のCMみたいな笑顔を浮かべて答える。
「なに言ってんだよ。ニートは職業じゃないぞ?」
そりゃそうだよなあ、とうなずきかけた僕にヒロさんの追い打ちが飛ぶ。
「ニートというのは生き様なんだな」
僕はもう泣きそうだった。生き様だってさ。目を細めて髪をかきあげるヒロさんは無駄にかっこよかった。なんなのこの人たち。
「ヒロなんで名刺作ったんだっけ」
「これナンパに便利なんだよね。見せるだけでウケるから」
「彼女に怒られるから無差別爆撃はやめたと言ってませんでしたか」
「あ、あの娘とは別れた。今はヘルス嬢の部屋に泊めてもらってんの。最初から無職って主張しとくと居着くの楽だわーほんと」
ヒロさんはヒモだった。そうか、生き様かあ。
彼らの会話を遠く聞きながら、僕はラーメンのスープを飲み干した。味はよくわからなかった。断片的な話から察するに、全員まだ十八歳か十九歳らしい。輝かしい未成年。
テツ先輩の言う通り、僕ももうすぐこうなるのかな、とぼんやり思い始めた。それだけはかんべんしてほしかった。
みんなラーメンを食べ終えて食後のアイス(テツ先輩は二つ目)をついばんでいるとき、不意に狭いビルの間にけたたましいロックのリズムが鳴り響いた。『コロラド・ブルドッグ』のイントロだ。三人とも飛び上がるように立ち上がって、それぞれの携帯電話を取り出す。三つの携帯がまったく同じタイミングで同じ着メロを鳴らしていた。
テツ先輩が真っ先に電話に出た。少佐とヒロさんの携帯はいきなり黙り込み、二人はなんだか悔しそうに腰を下ろす。
電話を切ったテツ先輩は、厨房に向かって怒鳴った。
「マスター、注文! アリスから。ネギラーメンの麵とチャーシューと卵抜きで」
それはただのネギじゃないのか? と思ってたら、三分後にミンさんが持ってきた丼にはほんとにネギとスープしか入ってなかった。
「うちはラーメン屋だってあいつにちゃんと言っとけ」とミンさんは苦々しい顔で言う。
スープの海面にこんもりと盛り上がった白髪ネギの島を囲んで、テツ先輩と少佐とヒロさんは渋い顔をして額を突き合わせた。
「問題は、だれが持ってくかだ」とテツ先輩。
「アリス、機嫌悪そうだった?」とヒロさんが訊ねる。
「かなり」
「出前ですか?」と訊いてしまったのが僕の運の尽きだった。テツ先輩はうなずき、それからはたと膝を打った。
「四人いるし、山手線ゲームで負けたやつが届けることにしよう」
……四人?
「お題は」
「じゃあ『ハローワークによく置いてある冊子』で」
「わかりました。パス一回までですね」
「ちょ、ちょっと待って僕も入ってるんですか?」
「俺からな。《雇用保険受給資格者のしおり》」
「《三十二歳からの自分探し》」
「《二分であなたの天職が見つかる!》」
「え、あ、あの」
「ナルミ、パスいちな。《だれも教えてくれなかった得する退職法》」
「《パソコン一台でらくらく起業できる!》」
「《新しい職場に三日でなじむための完全マニュアル》」
「……そんなん知ってるわけないでしょ!」
「逆切れかよナルミ。ニートならみんな知ってるぞ。職安に一回だけ行ってなんもしないで帰ってくる。全員通る道だから」
いや、ニートじゃねえから。
「敗戦は素直に認めろ負け犬」
「気にしなくてもいいんだよナルミ君。知らなくても恥ずかしいことじゃないから」
「当たり前です慰めないでください!」
「でも配達はしてくれよ」
絶句。まんまとはめられた。
出前先は、ラーメン屋の入っているのと同じビルの三階だった。308号室。「行けばわかる」と言われた通りだった。ドアにでっかい看板が打ち付けてあったのだ。
《NEET探偵事務所》
可愛らしくレタリングされた字でそう書いてあり、その下には謎の英文があった。
It's the only NEET thing to do.
今日一日でだいぶいいかんじに脳が麻痺していた僕は、ニートが探偵をやっているくらいではもう驚かなくなっていた。ラーメンを載せたトレイの角でインタフォンのボタンを押す。インタフォンはカメラつきに改造されていて、青いランプがちかちかと点滅した。テツ先輩によればこれは『入ってよし』のサインらしい。
中は奥行きのある細長いワンルームだった。冷房が効いているのか外よりもさらに寒い。冷蔵庫とキチネットと洗濯機が並んだ廊下の奥に、狭苦しい部屋が見えた。間にドアがない造りなので、天井までの高さのあるPCラックや数え切れないほどのモニタ画面で部屋の壁が埋まっているのが玄関からでも見える。
「ラーメン、持ってきたけど……」
「入りたまえ」
奥から女の子のかなり幼い声がした。
トレイを手に部屋の入り口まで行った。とんでもない部屋だった。三方の壁一面がわけのわからない機器と液晶画面とコードの束で覆い尽くされ、わずかに残った部屋の中央の床はベッドが占めていた。毛布の上には大小さまざまなぬいぐるみ。その中に埋もれるようにして、僕に背を向けて座っていたパジャマ姿が、振り向いた。
人形かと思った。小さな顔、不釣り合いに大きな瞳、冗談みたいに白い肌、細っこい手足、シーツに川をつくる長いさらさらの黒髪。ファンシーなクマさんの柄が入った水色のパジャマ。僕はトレイを持ってしばらく呆然とその女の子を見つめていた。
女の子は、キーボードの載っていた可動式のテーブルを脇へ押しやると、かわりに別の細長いテーブルをベッドの上に引っぱり出してきた。病室のベッドに備え付けてあるようなやつ。
「なにを突っ立っているんだい。ぼくはネギラーメンを注文したんであって高校生の形をした置物を注文した憶えはないよ」
「あ、ん……えと。そこに置けばいいの?」
「この距離からきみの持ってる丼に手が届くほどぼくの腕が長いように見えるのかい?」
すげえ言われようだった。なんだかもう怒るのも呆れるのも通り越してすがすがしい。僕がトレイを女の子の前のテーブルに置くと、彼女は割り箸を取り上げてじっと見つめ、それから大きく深呼吸した。ちっちゃい顔に気合いがみなぎる。箸先を持った両手に力がこもった。けれど割り箸は《人》の字の形に広がってぷるぷる震えたままいっこうに割れない。どんだけ非力なんだこの娘。
「……割ってあげよか」
パジャマ娘はきっと僕をにらみつけた。
「きみは翼が弱くて飛べない雛鳥を見つけたら飛ぶのを手伝ってやろうと言って空に放り投げて自己満足に浸るタイプか。最低だな。きみがしたり顔で歩き去った背後でその雛鳥はアスファルトに叩きつけられて死んでるのに、気づきもしないなんて、愚昧にもほどがある」
なんで割り箸一本でここまで言われなくちゃならないんだ、と思ったけど、僕は口をつぐんだ。彼女は再び息を大きく吸い込んで割り箸に全力をそそぎ込む。
ぼき。
右手側の箸が折れた。よくあるパターンだ。彼女は長さが不揃いになってしまった割り箸をしばらく無表情に見つめ、それから「う、う……」と涙目になる。おい、泣くな!
すん、と鼻を鳴らすと、潤んだ目を手の甲でこすり、彼女はネギラーメン(というかネギ)を食べ始めた。と思ったら僕をまた上目遣いでにらみ、「きみはほんとに悪趣味だな。他人の食事を黙ってじっと見ていて楽しいのかい」と言う。
「あ、ご、ごめん」
部屋を出ていこうとしたら、今度は、「どこへ行くんだ。きみが戻ってしまったら食べ終わった後の丼はだれが片づけるんだ。それくらい考えたまえよ」とか言うのである。僕はぼりぼりと頭を搔くと、ベッドに背を向けたまま部屋の入り口にしゃがみこんだ。
パジャマ娘がネギを嚙むしゃくしゃくというかすかな音を背中に聞きながら、僕はその日一日を振り返っていた。なんとなく断りきれなくて彩夏についてきただけなのに、いやあ、色々あった。もう疲れたよ。寝そうになっていた僕の背中に、再び彼女の声が刺さる。
「ナルミ。食べ終わった。冷蔵庫から飲み物を取ってきてくれたまえ」
僕はびくんとして立ち上がり振り向く。
「え、え?」
「冷蔵庫から飲み物だ。他人の家にあがりこんで寝ようとするなんて、ほんとに図々しいやつだなきみは」
おまえには言われたくない。でも僕は素直に従った。くたびれていると反抗する意思もなくなってくる。冷蔵庫を開けると中には深紅の350ミリリットル缶がぎっしり並んでいた。他にはなにも入っていない。コーラかと思ったら全部ドクターペッパーだった。突っ込む気力もなかった。パジャマ娘はドクターペッパーをごくごくと一気飲みすると、幸せそうな顔をする。その表情を見ているとなんだかすべてを赦せそうな気がしてきた。
「神様が創世七日目に休んだのはドクターペッパーを飲んでいたからだよ。ドクターペッパーがなければ今頃一週間は十二日くらいだったにちがいない」
「そうスか」
「ナルミ、きみも飲むといい。うちの冷蔵庫に入っているのは一本たりともやれないけれど売ってる店を紹介してあげよう」
くれるんじゃないのかよ。
「……って」僕はそこでようやく気づいた。「なんで僕の名前知ってるの」
テツ先輩が電話で話していただろうか? いや、あのときは一方的に注文を受けてすぐ切られていた。僕の名前なんて出る間もなかった。
「藤島鳴海、十六歳男、身長164センチ体重51キロ、M高校一年四組……」
パジャマ娘の口から、僕のプロフィールが──住所、電話番号、学歴、家族構成──ずらずらと出てきた。さすがに僕は言葉を失った。
「彩夏が新入部員がどうのと話していたから、調べたんだ。学校というところはセキュリティの甘さと情報密度のアンバランスがすさまじいのだよ。気をつけた方がいい」
僕は呆然と、部屋を取り巻くコンピュータの分厚い壁を見回す。
「……ハッカー?」
「ハッカーじゃない」
パジャマ娘は笑って首を振った。
「ニート探偵だよ」
アリスというのは半分本名なのだと探偵は言った。
「有子をそう読ませているのだよ。それと、ジェイムズ・ティプトリー・ジュニアの本名から拝借した」
「だれそれ?」
アリスはベッドの上で膝を抱え、馬鹿にした目つきで僕を見る。
「小説家だよ。玄関の看板に書いてあったろう。一文字もじってあるが、あまりにも有名な作品の文句じゃないか。読んだことないのか」
看板に書いてあった英文を思い出し、僕は首をひねる。
「探偵ってことは……その、依頼受けて色々頼まれて調べるわけ」
「ただの探偵じゃない。ニート探偵だ。調布と田園調布くらい違うから気をつけたまえ。ただの探偵は聞き込み張り込み歩き回って足で情報を稼ぎ探し物を見つけだす。ニート探偵は」
アリスは胸を張り、背後の壁を埋め尽くす機器類に向かって手を振る。
「部屋から一歩も動くことなく世界中を検索し真実を見つけだす。ネット依存症のひきこもりじゃないかと、きみは今そう思ったね? 隠さなくてもいい」
「うん……まあ」
「ふん。真の探偵は俗人には理解されない仕事だからね。その本質は、死者の代弁者だ。失われてしまった言葉を墓の底から掘り返して、死者の名誉を守るためだけに生者を傷つけ、生者に慰めを与えるためだけに死者を辱める。理解も歓迎もされるはずのない仕事だよ。ひきこもりがなにを偉そうなことを、という目だね」
「いや、そんな具体的な目はしてないけど」
「ほんとうに?」
「うん」
「しかし、なにか言いたげだ。遠慮なく訊きたまえ。職業柄、矢継ぎ早に質問されるのには慣れている。そして早く絶望させてくれたまえよ」
……絶望?
とくべつ訊きたいことがあるわけじゃなかった。僕はただ、のべつ幕無し喋り続けるこのアリスという奇妙な少女にびっくりしていただけだ。でも、流れ的にこっちからなにか訊かなきゃいけない雰囲気だったので、サイバーな部屋を一通り見回した後で僕は、いちばん疑問に思っていたことを口にした。
「食事とか……どうしてんの。いつもあんなの食べてるわけ?」
アリスは丸い目をさらに丸くする。
「そんな些事が、きみの真っ先に思いつく疑問なのかい」
「……食事は大切だと思うけど」
「ふむ。もっともだ。きみは変わっているな。彩夏から聞いていたのと少しちがう」
アリスは目を細めて僕を見た。微笑んでいるみたいに見える。
「栄養補給ならドクターペッパーだけでじゅうぶんなのだよ。しかしマスターがうるさいので、たまに野菜を頼んで食べている」
「だから背が伸びないんだよ……」
「背が高い方が優良であるというきみのその偏見はどこから仕入れたんだい? 短身であるメリットと長身であるデメリットをぼくはそれぞれ百五十ずつくらいは挙げられるけれど、きみも論陣を張るというのなら受けて立とう」
「いや、ごめんなさい」
背丈のことは頭の中で考えてただけなんだけど、ぽろっと独り言で漏らしていたらしい。
「じゃあ、生活はミンさんのお世話になってるわけ」
アリスは眉をつり上げた。
「失敬な。ニート探偵だと言っただろう。ニート探偵は職業探偵だよ。紛う方無き所得があり、マスターにもちゃんと対価を支払っている」
「え、え、でもニートなんでしょ」無職のことじゃないのか?
「きみはニートというものを根本的に誤解しているようだね。NEETの二文字目のEはEmployment、つまり雇用職だ。個人事業主には該当しない。あとは当人の考え方の問題だよ」
当人の考え方。
「……生き様?」
「ヒロに言わせればそうなるな。あるいはツルゲーネフはそれを幻滅と呼ぶかもしれない。ドストエフスキーは地獄と呼ぶかもしれない。サマセット・モームは現実と呼ぶかもしれない。村上春樹は自分自身と呼んでいた。ぼくはまたちがった表現を用いるが、とにかく所得があることにはかわりがない」
なにを言ってるのかさっぱりわからなかったけど、こんなパジャマ娘が実際に探偵業で稼いでいるというのはにわかには信じがたかった。そりゃあ、パソコンとネットには詳しいみたいだけど。
「疑いの目だね。いいだろう。もうすぐここに一人の男がやってきてぼくに仕事を依頼する。それを聞けばきみもぼくが職業探偵であることを認めるだろうさ」
「……え?」
そのとき、タイミングをはかったかのように、チャイムが鳴った。僕は玄関を振り向く。
「出てくれたまえ」
「僕が?」
「たまにはぼくの事務所も青ランプ以外の歓迎があってもいいと思っていたところだよ」
玄関まで行ってドアを開いた僕は、その向こうに立っていた三人の男を見て固まった。真ん中は、革のハーフコートを羽織った若い男。僕よりちょっと歳上くらいに見えたけど、狼みたいに目つきが鋭かった。その後ろ左右に従えているのは岩山みたいな筋肉男と電柱みたいな背の高い男。揃いのグレイのトレーナー。
「だれだ、おまえ。アリスは?」
狼が言った。僕がその視線に射すくめられ、唇をわななかせて言葉に詰まっていると、部屋の奥からアリスの声が飛んでくる。
「やあ、四代目。入ってくれたまえ」
四代目と呼ばれたその男は、後ろの二人に「ここで待ってろ」と言うと、僕を押しのけて部屋に入った。ドアがばたんと閉じて二人が僕の視界から消える。閉まる直前の一瞬、にらまれたような気がした。僕の手はまだノブに張り付いて震えていた。
「ナルミ、ドクターペッパーをもう一本持ってきてくれたまえ」
アリスの声で、ようやく僕はドアから手を引き剝がすことができた。
「おい、だれだこのガキは。仕事の話だっつったろうが」
アリスに缶を渡すとき、ベッドの端に腰掛けた四代目が僕をあごでしゃくって言った。それから僕に向き直る。「おまえ、ちょっと外に出てろ」
「え」
まさかドアの外であの熊並みのボディガード二人と仲良く話が終わるのを待てとおっしゃる。かんべんしてください。
「それは高校生の形をした置物だと思って気兼ねなく話してくれたまえよ四代目」
「おいアリス、ふざけんなよ素人に聞かせられる話じゃないのはわかってんだろが!」
「大丈夫、ナルミは今日づけでぼくの助手になった。口の堅さは保証する」
いつ助手になったんだ聞いてないぞ。
「そういう問題じゃねえ」
「どうしてもというのなら、きみの業界は隠語の塊みたいなものだろう、素人にはわからない言葉だけで説明してみたらどうだい。それもいやならよそに頼むんだね」
四代目はしばらく苦々しい顔をして、ベッドの支柱を爪先で蹴っていた。やがて、息を吐き出して話を始める。
たしかに、さっぱりわからなかった。知らない固有名詞がいっぱい。意味のわからない動詞がいっぱい。かろうじて意味がとれたのは『見つけ次第殺す』とかそういう、あんまり聞きたくない言葉ばかりだった。
「ふむ」
アリスは四代目の話を一通り聞くと、ドクターペッパーの二本目を飲み干した。
「わかった。ナルミ、今の話は理解できたかい?」
僕はあわててぶんぶんと首を振る。
「そうかい。簡単に言えばこの界隈で四代目の組のあずかり知らぬ薬物売買が行われているからそのルート解明に協力しろと」
「てめえなに解説してんだよ意味ねえじゃねえか!」四代目が切れた。当たり前だ。僕はちょっと安心していた。よかった、ちゃんと突っ込む人もいるんだ……。「てめえもなに嬉しそうな顔してんだよ!」四代目の怒りがこっちに向かってくる。僕は廊下まで後ずさって冷蔵庫の裏に隠れた。
「うん。今日のぼくは朝からたいそう偏頭痛がひどくてね。最初にうちに来た人間をだれでもいいから怒らせて発散しようと思っていたら、そこのナルミはなんだか知らないけど辛抱強くていけない」
あれもこれもわざとだったのかこのパジャマ娘。
「繰り下がりで四代目にお鉢が回ったというわけだから気を悪くしないでくれたまえ。四代目はひどいことをするとちゃんと腹を立ててくれるから大好きだよ」
アリスは毛布の上に両脚を投げ出してにっこりと笑う。それで僕も(たぶん四代目も)撃墜されてしまった。四代目は毛布を何度も殴ると、喉まで出かかった言葉を吞み込んだような顔をして、立ち上がる。
「で、仕事は受けんのか」
「引き受けたよ。任せてくれたまえ」
「詳しい話はメールで送る。じゃあな」
四代目は廊下に出てくると、冷蔵庫の陰から僕を引っぱり出した。左肩をつかまれ、親指がすさまじい力で肉に食い込んでくる。
「あ、い、……」
「おまえの顔は憶えたし住所もすぐに調べはつく。いいか、おまえはなにも聞かなかった。わかったな?」
すぐ目の前に狼の目。僕はがくがくとうなずいた。
「返事しろ」
「わ、かり……ました」
僕を床に投げ捨てると、四代目は部屋を出ていった。
「大丈夫かい?」
僕がぐったりして台所の隅で丸くなっていると、アリスがやってきて言った。こいつ自分の足で歩けたのか。ベッドの外に出ると死んでしまう病気なのかと思ってた。
「なんかもう疲れた」
僕の喉からそんな言葉が出てきた。その日一日の、偽らざる感想だった。
「こうでもしないと、ぼくがただのネット依存症のひきこもりだと思われたままなんじゃないかと危惧を抱いてね。悪く思わないでくれたまえ」
「いや、それはもう十分わかったよ」
彩夏のおかげで、僕の人生はとんでもない領域に足を踏み入れようとしていた。薬物売買とか探偵とかハッカーとかは、僕の知らない遠くの世界でよろしくやっていてほしかった。
「それだけのために、助手だとか口が堅いだとか、でまかせばっかり……」
「でまかせではないよ。きみは確かに口が堅い。それは知ってる」
僕はアリスを見上げた。笑ってる。今日逢ったばかりなのに、なにを言ってるんだろう。
「ねえ、ナルミ。ぼくと初対面の人間は、だれもが例外なくこう訊くんだ。『ほんとにニートなの? どうしてニートになったの?』訊かなかったのはきみがはじめてだ」
アリスはしゃがみ込んで、うずくまった僕と目の高さを合わせる。
「あるいはきみのそれは無神経とか無関心とかいうものかもしれないけれど、ぼくは──ぼくらニートは、それを嬉しく思う。憐れむくらいなら、ほっといてほしいんだ。どうしてニートになったのかなんて、訊くまでもない。そんなの、理由は一つしかない。神様のメモ帳の、ぼくらのページにはこう書いてあるのさ。『働いたら負け』ってね。他に理由はない」
「……神様のメモ帳?」
「すてきなくらい無責任な言葉だろう?」
膝を立ててそこに両腕と顎をのせ、アリスは微笑む。
「ニートというのはね。なにかが『できない』人間や、なにかを『しようとしない』人間のことじゃないんだ」
●
空の丼を載せたトレイを手に僕がNEET探偵事務所を出たときには、もう空はすっかり真っ暗だった。地上のけばけばしい光に潰されて、星はまったく見えない。階下のラーメン屋周辺はなんだかにぎやかになっていた。笑い声や怒鳴り声が聞こえる。
非常階段で下までおりると、あのニート専用席の僕が座っていたドラム缶に、四代目が腰を据えていた。テツ先輩と少佐とヒロさんとで、真ん中の木製の台を囲んでなにかやっている。甲高く澄んだ鈴のような音が聞こえた。
「壮さん! 五分だけって言ったでしょう!」
後ろに立っているボディガード岩男が四代目の耳元で怒鳴った。
「うるせえ負けっぱなしで帰れるか! さっさと振れよテツ!」
「お、四五六」
「っざっけんな!」
丼の上を千円札が飛び交う。チンチロリンだった。四人とも知り合いだったんか。
「藤島くん、ミンさんが新しいフレーバー作ったんだけど試食する?」
コーンアイスを手に彩夏が駆け寄ってくる。僕は薔薇の香りのするそれをなめながら、サイコロが丼を鳴らす音を聞いた。四代目は顔を真っ赤にして奇声を発しながら、まるで忍者の手裏剣みたいに札をばらまいていた。その光景を見て、僕は、不覚にも──楽しそうだな、と思ってしまった。
●
帰り道。街灯が照らす暗い歩道、僕の二歩前を歩きながら彩夏が肩越しに言う。
「ごめんね、藤島くんの歓迎会だったのに。なんか今日は珍しく忙しくて」
そういえば、彩夏と全然喋っていなかった。客も多かったし。僕まで出前させられたし。
「ああ、アリスにも逢ったんだってね?」
「うん。……変なやつだった」そうとしか言いようがない。
「でも今日はすごかったね。あの店の裏、面白い人が色々集まるんだけど、今日はほとんど全員来てたよ。藤島くんはラッキーだね」
「ラッキーかなあ」
たしかに、今日一日で僕のキャパシティが軽く吹っ飛ぶほどの人数と顔を合わせたけど、全員憶えていた。テツ先輩、ミンさん、少佐、ヒロさん、アリス、それから四代目。
「お兄ちゃんも来ればよかったのにな」
お兄ちゃん?
「あたしのお兄ちゃんも今、中退でニートしてて。前はあの店でテツ先輩たちとよくつるんでたの。でも、最近は家にも帰ってこないし、店にも来ないし、携帯もつながらないんだよね」
「ひょっとしてあそこに集まる人はみんな無職なのかな……」
空恐ろしい想像だった。僕もいつか中退して、ああなってしまうのか。
「学校やめたいとか思ったこと、あるの?」と彩夏が振り向く。
「毎日思ってる」
街灯の逆光の中で、彩夏の顔が翳る。
「……今も?」
僕は言葉に詰まった。即答できないということ自体がおかしかった。
彩夏は切実そうな目でじっと見つめてくる。
僕は目をそらして、「今は。そうでもない、かな」と噓をつく。
「そう」
柔らかい微笑み。
「でも、ここはたぶん噓つかなくてもいい場面だと思うよ」
僕は啞然として足を止めた。彩夏も立ち止まる。ちょうど二本の街灯の中間で、僕らの影がアスファルトの上で淡く交差する。
「……なんで?」
それだけ口にできた。なんで。なんで噓だとわかったんだろう。
「だって、あそこはあたしの場所だったから」と彩夏は言った。「あたしも他に部員がいないからって園芸部に入ったんだよ。それで、屋上でずっと、学校やめてなにしようか考えてた。だからあたしの方が半年くらい先輩だよね」
なんで笑いながらそんなことを言えるんだろう、と僕は思う。だって僕とちがって彼女は、クラスでもちゃんと自然に、呼吸するみたいに喋っているように見える。
そんなことを言ったら彼女は、さっきよりずっと透き通ったガラスみたいな笑みを浮かべる。
「簡単だよ。藤島くんにもできるよ。怒ったら普通に怒鳴って、嬉しかったら普通に笑って、ほしいものがあったら普通に言えばいいだけだよ」
僕はしばらくうつむいて、その言葉の意味をじっと考えてみた。わからなかった。なんかものすごく大きなお世話なことを言われている気がした。それがなにからなにまでぴったり僕に当てはまっているとしても。
橋を渡ったところで僕らは別れた。
バス停に向かって駆けていく彩夏の後ろ姿を見送りながら、普通に怒鳴ったり笑ったりする彼女のことを考えた。それって無理してるってことじゃないのか。そんなことを僕にもやれというのだろうか。無理してクラスメイトと話を合わせて、無理して笑って。
ほっといてほしかった。僕にはどうせできない。